プロフィール

森たいせい

森 たいせい(泰生)

血液型 A型
星座 みずがめ座
兄弟 2年下の弟(外資系保険会社勤務)
家族 妻と高校生、中学生の娘
趣味 朝風呂、ジョギング、テニス、読書
主な保有資格 宅地建物取引士、応急手当普及員
(※下記以外)

なぜ議員になりたいのか

学生時代から、万民に責任を全うすべき政治、という仕事に関心を持っていました。
約30年近い企業勤務の経験を通じ「国民の生活全般を国民の目線で考え、活力ある幸せな生活を保障するため」に自分の人生を賭けたいという思いからです。

1968年 2月に東京都港区で生まれる。
1980年 港区南山小学校 卒業
1983年 城南中学校(現六本木中学校) 卒業
1986年 東京都立三田高等学校 卒業
1991年 日本大学法学部 卒業
同年中堅総合商社に入社。その後世田谷区桜新町の電気接点メーカー勤務。
2002年 株式会社アルプス技研に転職。
大宮、宇都宮、千葉、東京での営業所長を歴任。
本社にて営業推進課長としても従事。
2011年 世田谷区議選に出馬し、1,036票をいただくも落選。
2014年 JCDA認定 キャリア・デベロップメント・アドバイザー 資格取得
2017年 衆議院議員 手塚よしお 公設秘書
2018年 国家資格 キャリアコンサルタント として認定
2019年 世田谷区議選に出馬し、3,277票をいただくも惜敗
2019年 参議院議員 塩村あやか 公設秘書

誕生-中学時代

1968年2月、長男として東京都港区に生まれる。
出世後約1年間は両親が新婚から暮らしていた港区東麻布の風呂なしのアパートでの生活であった。
父は内装請負業を独立して営み生計を立て、傍ら自由が利かなくなった祖父祖母の生活をみることもあり、生活には苦労も多かった。

港区でも下町の東麻布、東京タワーふもと界隈の公園、麻布十番等商店街を小学校や地元友人達とは走り回って遊び、古川という汚染された川の付近を基地としてよく探検遊び等したものである。
今や高級住宅街などとよく言われるが、下町風情が大きく残る当時の商店街の趣も忘れることが出来ない。

小学校時代は住宅購入で近隣に転居する為、転校を余儀なくされその影響か勉強に打ち込む時もあったが、基本的には活発ですぐ多数の友人をつくることが出来た。
時に正義感からケンカも辞さない一本気なところは現在でも残る性格の醸成時だったかもしれない。
両親には感謝しているが経済的に決して余裕はない中、当時まだ珍しかったバイオリン演奏の習得機会を弟も共に得ることが出来た。
中学時代に自発的にやめてしまったが、いつかまた演奏する機会を持つことが夢である。

中学校では卓球部に所属し意外にも毎日厳しかった練習に打ち込み、地元の町塾にも通い成績も上位をキープ。
現在も交信のある友人達にも恵まれ心身ともに成長の基礎となった時期でもあるが、小学校時代からのいたずらふざけが有り余るエネルギーで絶えず、逃げ足はピカイチ。

1968年 生後間もないころ
1970年 左は生後の弟

高校時代→大学時代

偶然母親も卒業生である、都立三田高校へ進学。
バレーボール部に所属しここでも厳しいトレーニングをコーチ、先輩から受ける。
小柄な自分はセッターで周囲を支援。
関東大会出場を目指し受験時ぎりぎりまで活動。
一方で禁止されていなかったとはいえ、学年でもいち早くアルバイトに就き、ハンバーガー店内での業務や高校近隣でのオフィスビルで清掃業務に従事。アルバイト料でまだ高価だったコンタクトレンズを購入したときの嬉しさは今でも忘れていない。
またこの時期特有の青春も謳歌し、疲れを知らない時期。

高校は伝統的に女性が強く、教室で隣に座る女性などに勉強面等よく救われたものであるが、受験時も調子に乗って勉強しない集団の一派におり高校2年で理数系から文系に転ずる。
非常に楽しい反面、1年間アルバイトをしながらの浪人を経て日本大学法学部管理行政学科(現、公共政策学科)に入学。

大学時代はアメリカンフットボールの学部チームに入り多くのタイプの友人をつくる。
なお一層自信を持ち始めた頃でもある。
一方で社会人を意識し、様々なアルバイトにチャレンジ。
今思えば資格試験等に打ち込むべきであったと後悔しているが、いろいろな縁で多くの仕事に従事出来た子ことが財産になっていることは間違いない。
道路修復でのガードマン、地元の塾での小中学生相手の講師や家庭教師、高級レストランでのウェイター、文化庁主催の祭典に出演するアジア国賓の方々お世話等々。

この頃から政治に興味を持つようになり文芸春秋等その他の政経雑誌も読み込むようになる。
専門科目でない政治哲学を受講しマキュアベリの著作を読み、頭を痛めた経験も。
卒業後の企業就職一辺倒の方針へ疑問を持つようになり、短期でのアメリカ留学の予定もあったが母の病状悪化、経済面での生活の心配もあり就職を決意。

高校時代バレー部
大学時代学部アメフトチーム
中学校受験女子クラスで教える

社会人

ノザキのコンビーフで有名な中堅商社の野崎産業株式会社へ入社。
海外勤務を目標に貿易業務、国内の法人営業に従事。
職人気質の上司が前に座り、教育など全く無い状態で業務を覚えていった。
「ならううよりなれろ」の精神で、悩みながらもまさに毎日が自分との戦いであった。
同期では担当としていち早く個人としての成績も上げることに。

毎日のように部署の先輩達と居酒屋等で飲むことも多く、仕事の議論では上司とケンカ寸前に及ぶ議論など茶飯事であった。

バブル崩壊後の影響もあり、約6年後、業績は不振を極め吸収合併により会社は消滅。
一部上場の会社が無残にも消えていくのを目の当たりにする。
父も業務量の停滞で自営の会社を閉じることにもなり、母親は人工透析を続け一級の障害者に認定。

決して大企業だけが活躍の場ではないと、地方自治の観点で政治に関われないかとの想いで、地元(当時は目黒区在住)の区議へ飛び込みで訪問し、社会に対する問題意識をぶつけたりした(非常に迷惑であったかと思われるが・・)。
後援会を手伝ってくれと言われたものの、当時も即経済的に支援していかねばならない状況もあり、新聞折り込みのちらしで社員募集をしていた世田谷区桜新町の中小企業の電気接点メーカーに就職。
世田谷区に勤務する関係では区との関わりを持つきっかけにもある。
遅くまでの残業も厭わず、検査業務、生産管理、品質管理、営業等全国の大手メーカー様と対応。
かなり厳しい交渉もあったがものづくり業界の楽しさを味わうことも出来て、理数系への進学しなかったことをここでも後悔。
6年勤務後に縁あって株式会社アルプス技研へ転職。
結婚して世田谷区に住居を購入。
妻も大病を乗り越えた後、二人の娘を授かる。
仕事では関東地域の拠点、新人トレーナー、営業推進部勤務(課長)を経て、現在、東京第1営業所にて120名の新人からベテランまでの所属員を抱える拠点長であり、プレイングマネージャーとして奔走。

常用雇用でエンジニアの派遣、アウトソーシング(請負業)を行っており、雇用に関わる業務、営業を中心に行っており、言わずもがな昨今の雇用不安、若手の人間教育の問題も去ることながら、今後の戦略含め所属員と問題意識を抱きつつ、幹部として何ができるか経営陣含め大きな課題に直面。

兼ねてから政治に対する参画希望も相まって応募。その後公認を得て出馬。
逆風と戦いながらも結果はあえなく落選。

その後、人工透析で永年病気と闘った母が無念にも他界。
90歳を目前にした父を引き取り同居して2年が経過。
現在、父は要介護レベルである。
高齢者を支援する環境には共感を抱きながらも問題意識を持つ。

それと同じく今後高齢者や障害者、若者が生きるための大きな礎、生きがいを築くために働いて世の中に接する機会をより多くつくりあげたい。若者の情操教育含めそのために政治に関われるのであればこれほど大きな人生のやりがいは無いタイミングであると感じている。

私的なことではあるが、1860年桜田門外の変で井伊直弼を倒したメンバー水戸藩士17名のうち森五六郎直長は先祖。
毎年1回を目標に水戸の墓前に。命を散らし明治維新へ大きく導こうとした想いを無駄にする生き方は出来ない、と昨今は強く感じている。

大学卒業時
桜新町勤務先での社員旅行
アルプス技研東京営
営業所でのリーダー会議
現場マネージャーとの相談
2010年当時の長女、次女と
2018年長女、次女と